創造力の芽を摘む「自己不信」を克服する10のヒント : ライフハッカー[日本版]

自己不信は根が深い。自分の表層だけを信用しても、深くから不信がこみ上げてくる。深くの自分を信用できれば簡単である。表層はその上に立つ。しかし、深くの自分を信用するためには、深くの自分を思い出さないといけない。それが問題だ。しかし、深くに本当の自分が居るのである。しっかりと座っている。

作家のシルヴィア・プラス(Sylvia Plath)氏は、「創造力の最大の敵は自己不信だ」と日記に書きました。

なんと的確な指摘でしょう。自己不信によって、私たちは自ら創造することをやめ、作品を世に送り出すことを諦めてしまいます。自分の力を正しく認識することができなくなり、ペンや絵筆、カメラなどから何十年も遠ざかってしまいまうのです。

引用元: 創造力の芽を摘む「自己不信」を克服する10のヒント : ライフハッカー[日本版].

セルフエスティームを効果的に高める

人生を安全に生き抜くために必要とされている理論があります。

アメリカなどでは護身術の基本的最重要課題としてカリキュラムが組まれていて、常識になっています。

セルフエスティーム(自尊心)とバウンダリー(識別)能力を高めるということです。

これについて詳しくは、こちらで説明があります。

そこで、武道修行以外でも、これらを高める効果的な手段があるのかというご質問に対してお答えします。真の武道もとても近道ですが、それなりの、時間がかかるのも確かです。

そこで、手っ取り早い方法は、1ヶ月くらい人と会うことの無い、厳しいジャングルの中を何も持たずさまようことです。

セルフエスティームやバウンダリーは極限まで高まります。

ビジョンクエストですね。死ぬか生きるかの境地です。

しかしそれは現実離れしているので、まず、セルフエスティームをゆっくりと高めていくほうがいいとおもいます。

それは絶えず、その道を歩んでいかないとまた振り出しに戻ります。

山の中を1ヶ月死ぬかも知れない旅を続けるか、日常で自分の心の中に同じ状況を作って旅を続けるかですが、後者はいかに自らの心的境地の中を歩き続けることができるかがまず課題です。

瞑想などはまさにそうですが、短い時間しかできません。瞑想をして日常を過ごしながら、恐ろしい現実と向き合ってこそ意味があるので、瞑想はその境地を体験するだけになってしまいます。

大切なのは、日常でずっとその境地にいてこそ、セルフエスティームは高まります。日常で、何かと出くわしてその境地から出ると言うことは、ビジョンクエストで狼と出会って恐くなって、山里の街に下りてくるのと同じです。

ですからまた最初からの振り出しです。

その前にその境地はどこなのかと言うことですから、その境地を得るには武道だけでは無く、自分の内を知り尽くしていかないといけません。経験と理論の整合が最も有効です。

経験は武道や日常。理論は唯識論など、自らの内を知ることができる智慧です。

ですから、ビジョンクエストでも、それなりの知恵が備わった青年にしか許されません。

智慧は長老の見識と触れて備わります。現実では、その見識は唯識論などの心理探求ができる合理的な見識に触れることです。

合理的な見識が大切なのです。

ですから、有効にと言うことであれば、まず唯識論または心理学の総合学問(これは大学から行き直しくらい、「総合的」な心理学を学ばないと、それでも十分ではないほどだと思います。ですから心理学では難しい。)を身につけてそれを完全に理解することです。

そして、自分の日常とその理論が整合する境地にいつもいて、この社会を生き抜いていくことができれば1ヶ月ほどで相当に高まります。唯識論の智慧を身につけただけでは、現実と智慧の差異が生まれ逆に心や精神を病むこともあるので、それらを身につけたなら、現実の自分の人生に完全に生かすことが最も大切です。

これらは、私ももう25年もライフワークとして取り組んでいる活動です。

まず、真理すなわち絶対性(何があっても相対するものが無い)に対する智慧を得てから、ビジョンクエストをするのが最も手っ取り早い効果的です。

そういう意味ではビジョンクエストは最高の方法まで到達したとも言えます。

それと同じように、智慧を得て、日常で境地から出ることが無く、多くの経験をする。

山の中よりも、実生活の中で恐ろしい魑魅魍魎と出くわしても、山里へ逃げない世界を生き抜く。完全に出ることが無いのなら、1ヶ月で良いと思います。お寺にこもるなどはだめです。何の生死問題もありません。しかし、仏門に入るのならそれも良いと思います。しかし、それ以外の日常生活を生きていくつもりなら、意味がありません。

まず、それで、この世界を完全に生き抜くことです。これができれば、ビジョンクエストと何ら変わらない効果で、セルフエスティーム(自尊心)とバウンダリー(識別)能力は一挙に高まります。しかし、相当厳しい世界です。多くのものを失うかも知れません。

難しいのは目の前にいつでも逃げ場がある現実社会では、その逃げ場があるという認識から始めないといけません。逃げ場を認識していないと、ついそこに行っては、逃げていないと思うからです。ここからの認識が必要です。

逃げるとは、山から下りる?それなら一からやり直しです。みんないくら瞑想をやっても、同じことです。

それがわかり、またそれをちゃんと傍から指導できる人がいれば、簡単に効果的に高まります。

もしくは、一度本当に死の恐怖の中で死んでみることです。これだけは、「ごつん」と一挙にセルフエスティームとバウンダリーが高まるはずです。これが一番効果的です。生き返る保証はほぼありませんが。

第九意識と究竟位

究竟位はどこにおいて意識されるのか?識もなく識もある世界であるのに、阿頼耶識よりも深い世界を認識することは可能なのか。
すなわち、第九意識とは完全なる涅槃すなわち、完全なる無の世界である。
その世界を認識することで、究竟位に到達する。

五位の修行 第五位 究竟位〔くきょうい〕

究極という場所である。
もう先がないと言うことは、まだまだ先があるということであり、もう過ぎたことと言えば、まだすぎていないと言うことであり、全てに有無がないところであり、現実の中に生きているも、真如の中に生きていることもなく、又現実に生きていて真如の中に生きている状態に達しているのである。
ここは、唯識において語るには、とてもさわやかで清らかな場所であるので、識もなく、識もあると言える場所である。
従って唯識という言葉も、論も存在しないし、又存在する場所であるので、唯識論で述べる事もでき、又述べることもないところである。

唯識論と唯心論が最終的に異なるところは、ここだけである。
唯心論は識(心の作用)こそがこの世界の全てであると考えている。
唯識論はこの識でさえも存在もせず、又存在しないこともないという完全無垢な世界を説いている。般若心経に通じる部分である。

修習位 迷悟衣〔めいごえ〕—全ては如来の中

真理が迷いと悟りのよりどころと考えるものである。
種子衣は人間の現実的な自己の存在を指しているのに対して、永遠の真理という理法を意味するところである。
種子は事。現実の存在であり有為法。迷悟は超越的な存在であり無為法である。
本来は双方は一つのものとして和合して、又同一でないものである。不離。非異ということである。
唯識ではこれをはっきりと二つに分けてから考える。
永遠普遍のものと現実で有限のものとの織りなしが、迷悟の拠り所となる迷悟衣である。

真如凝然

真如はじっとして動かないという意味である。

真理は現実に内在して現実の中にあり、現実と真理は全く次元は違うが、一刻も離れることはない。

もともと悟りとは真如を真にわかると言うことである。
迷いとは真如がわからないが、それを求めようとしているものである。ありのままの自分が見えないのである。
どちらも真如との関係であるので、迷悟衣という。

迷うから悟る、悟るから迷うとも言うべきである。

すなわち迷うも悟るももともと真如の上にあったからで他ならないという事を知るときが迷悟衣である。

修習位 種子依〔しゅうじえ〕—私が私になる

1) 阿羅耶識の転換は<持種依>の<転依>であり、自分が根底的に変わることである。
2) <転依>は、阿羅耶識の持つ二面(人間の深層や人格の全体像といった個人的内的面と、環境を決める外的面)が変わること。
3) 山も川も宇宙もみんな、わが<こころ>の中にある。
4) <阿羅耶識>が変わると<大円鏡智〔だいえんぎょうち〕になる。<識>が<智>になる(転識得智)。
(a) <智>は、あるがままに自己を自覚し親証する認識の構造。空なる自己が空なる自己にたちかえること。
5) <大円鏡智>とは、自分・環境・世界のあらゆるものをありのままに鮮明に映現する<こころ>という意味。
6) <阿羅耶識>は<種子>を保持している<こころ>なので、<種子依>という。
7) <転換本質〔てんかんほんぜつ〕>とは、「もの」が変わることである。
8) 「転換する」ということは、私は私以外のなにものでもないという自覚に覚醒すること。

<修習位>の代表的な修行は、<十波羅蜜〔じっぱらみつ〕>の十項目である。

1) 布施〔ふせ〕…恵みを施し、互いに分かち合うこと。
(a) 菩薩の布施は「三輪清浄」である。布施の根元に利己生が超越されているため、施者・受者・施物に何のこだわりもない。
2) 持戒〔じかい〕…規律ある生活。自制心・自己抑制力。
3) 忍辱〔にんにく〕…耐えること。忍耐・我慢・辛抱。
4) 精進〔しょうじん〕…努力。
5) 禅定〔ぜんじょう〕…精神の統一。
6) 般若〔はんにゃ〕…根本智の修行。
7) 方便〔ほうべん〕…衆生済度の様々の方便をめぐらす。
8) 願〔がん〕…衆生済度の誓願。
9) 力〔りき〕…現実の是非・正邪を判断する力と、修行を継続する力を養う。
10) 智〔ち〕…後得智の修行。
v. <修習位>の修行は、真理によって高められ深められていく。
vi. 己を超えたものによって、己が清められていく。(無)
vii. 宗教的な言い方をすれば、如来に導かれての修行である。
viii. 煩悩浄化の図
1) <十波羅蜜>の修行により、煩悩が漸次力を失っていく。
2) 人間そのもの、生命そのものは煩悩でも善でもない。人間が生きていること自体に善悪はない。
3) <現行><種子><習気〔じっけ〕>は煩悩の状態の分類である。
(a) <現行>は、煩悩が実際に働いている状態。
(b) <種子>は、煩悩の潜勢態。
(c) <習気>は、種子の持つ雰囲気、残り香。
(d) <現行>を抑えることを<伏〔ぶく〕>、<種子>の無くなることを<断>、<習気>の消えることを<捨>という。
4) 修行の要は、自覚のできる<第六意識>である。

五位の修行 第四位 修習位〔しゅじゅうい〕

i. <修習位>とは、矛盾した自分に立ち向かう修行の段階である。
ii. <通達位>で親証した<空>の自覚を、繰り返し深めていく。
iii. <修習位>は、菩薩の<十地〔じゅうじ〕>の段階でもある。
1) 極喜地〔ごっきぢ〕…真如と一体の体験を初めてした時の無上の喜びの境位。
2) 離垢地〔りくぢ〕…汚れが離れる段階。
3) 発光地〔ほっこうぢ〕…智慧の光が輝き始める段階。
4) 焔慧地〔えんねぢ〕…智慧が焔となる段階。聖なるものに対してさえも、愛著を否定する。
5) 極難勝地〔ごくなんしょうぢ〕…<真如>を証する根本智と、世俗の智とが、真に綜合統一される段階。
6) 現前地〔げんぜんぢ〕…無分別の最勝の智慧が現前する。
7) 遠行地〔おんぎょうぢ〕…<現前地>で現前した最勝の無分別智が、更に極め尽くされる段階。
8) 不動地〔ふどうぢ〕…真如と一体となった生活が、何の努力もせず自然に続き、二度と変わることはない境地。
9) 善慧地〔ぜんねぢ〕…仏の教えの言葉や意義を自在に理解体得し、自由自在にそれを人に説くことが出来る段階。
10) 法雲地〔ほううんぢ〕…衆生の煩悩を滅除し、衆生の善根を生育させる。智慧の完成。

五位の修行 第三位 通達位〔つうだつい〕

i. <通達位>とは、唯識の真理が本当に証り、対象化が崩壊し、自分自身が<空>の真実になる段階である。→自分にかえること。
ii. 自分が自分を超え、自分でなくなる。自分でなくなりながら、しかも自分となる。
iii. <三界唯心><万法唯識>は、特に認識面にポットを当てた空の境説である。
iv. 自分に対して一番愚なのは、自分が見えず、自分を誇大視してそれを実体化して固執してしまう<末那識>である。
v. <真如>…そのまま、ありのまま、という意味を持つ→本当の自分
vi. 対象化しないで親証する働きを<根本無分別智>という。
vii. <無分別智>とは、真理を親証(自分の空なる真相が証る)することであり、見えなかった真実が見えてくる智慧の働きである。
viii. <無分別智>は五相を離れている。
1) 無作意を離れている。
(a) 修行によって獲得される物であるということ。
2) 尋有伺以上の境地を離れている
(a) 無尋唯伺地以上
3) 想受の滅した寂静を離れている。
4) 物質的性質を離れている。
5) 真実を計度する種々の相を離れている。
ix. 八識の中で<通達位>で変わるのは、<第六意識>と<第七末那識>である。
1) <第六意識>が<妙観察智〔みょうがんざつち〕>に、<第七末那識>が<平等性智〔びょうどうしょうち〕>になる。
2) <第六意識>が透徹してくると、<第七末那識>が真理を観、万物を平等に観る智慧が開けてくる。
x. <通達位>は、<見道><極喜地><初歓喜地>ともいう。
xi. <通達位>は、<資糧位><加行位>とは根本的に次元が違う。
1) <資糧位><加行位>は、自我中心的、対象的認識。
2) <通達位>は、<空なる自己>世間→出世間、有漏→無漏、凡夫→聖者への段階。
xii. <通達位>には、<根本智〔こんぽんち〕>と<後得智〔ごとくち〕>がある。
1) <根本智>は、真如と一体になる智慧である。
2) <後得智>は、現実を認識し自覚することである。
3) どちらも<無分別智>の二面である。