五位の修行 第五位 究竟位〔くきょうい〕

究極という場所である。
もう先がないと言うことは、まだまだ先があるということであり、もう過ぎたことと言えば、まだすぎていないと言うことであり、全てに有無がないところであり、現実の中に生きているも、真如の中に生きていることもなく、又現実に生きていて真如の中に生きている状態に達しているのである。
ここは、唯識において語るには、とてもさわやかで清らかな場所であるので、識もなく、識もあると言える場所である。
従って唯識という言葉も、論も存在しないし、又存在する場所であるので、唯識論で述べる事もでき、又述べることもないところである。

唯識論と唯心論が最終的に異なるところは、ここだけである。
唯心論は識(心の作用)こそがこの世界の全てであると考えている。
唯識論はこの識でさえも存在もせず、又存在しないこともないという完全無垢な世界を説いている。般若心経に通じる部分である。

修習位 迷悟衣〔めいごえ〕—全ては如来の中

真理が迷いと悟りのよりどころと考えるものである。
種子衣は人間の現実的な自己の存在を指しているのに対して、永遠の真理という理法を意味するところである。
種子は事。現実の存在であり有為法。迷悟は超越的な存在であり無為法である。
本来は双方は一つのものとして和合して、又同一でないものである。不離。非異ということである。
唯識ではこれをはっきりと二つに分けてから考える。
永遠普遍のものと現実で有限のものとの織りなしが、迷悟の拠り所となる迷悟衣である。

真如凝然

真如はじっとして動かないという意味である。

真理は現実に内在して現実の中にあり、現実と真理は全く次元は違うが、一刻も離れることはない。

もともと悟りとは真如を真にわかると言うことである。
迷いとは真如がわからないが、それを求めようとしているものである。ありのままの自分が見えないのである。
どちらも真如との関係であるので、迷悟衣という。

迷うから悟る、悟るから迷うとも言うべきである。

すなわち迷うも悟るももともと真如の上にあったからで他ならないという事を知るときが迷悟衣である。

<修習位>の代表的な修行は、<十波羅蜜〔じっぱらみつ〕>の十項目である。

1) 布施〔ふせ〕…恵みを施し、互いに分かち合うこと。
(a) 菩薩の布施は「三輪清浄」である。布施の根元に利己生が超越されているため、施者・受者・施物に何のこだわりもない。
2) 持戒〔じかい〕…規律ある生活。自制心・自己抑制力。
3) 忍辱〔にんにく〕…耐えること。忍耐・我慢・辛抱。
4) 精進〔しょうじん〕…努力。
5) 禅定〔ぜんじょう〕…精神の統一。
6) 般若〔はんにゃ〕…根本智の修行。
7) 方便〔ほうべん〕…衆生済度の様々の方便をめぐらす。
8) 願〔がん〕…衆生済度の誓願。
9) 力〔りき〕…現実の是非・正邪を判断する力と、修行を継続する力を養う。
10) 智〔ち〕…後得智の修行。
v. <修習位>の修行は、真理によって高められ深められていく。
vi. 己を超えたものによって、己が清められていく。(無)
vii. 宗教的な言い方をすれば、如来に導かれての修行である。
viii. 煩悩浄化の図
1) <十波羅蜜>の修行により、煩悩が漸次力を失っていく。
2) 人間そのもの、生命そのものは煩悩でも善でもない。人間が生きていること自体に善悪はない。
3) <現行><種子><習気〔じっけ〕>は煩悩の状態の分類である。
(a) <現行>は、煩悩が実際に働いている状態。
(b) <種子>は、煩悩の潜勢態。
(c) <習気>は、種子の持つ雰囲気、残り香。
(d) <現行>を抑えることを<伏〔ぶく〕>、<種子>の無くなることを<断>、<習気>の消えることを<捨>という。
4) 修行の要は、自覚のできる<第六意識>である。

五位の修行 第四位 修習位〔しゅじゅうい〕

i. <修習位>とは、矛盾した自分に立ち向かう修行の段階である。
ii. <通達位>で親証した<空>の自覚を、繰り返し深めていく。
iii. <修習位>は、菩薩の<十地〔じゅうじ〕>の段階でもある。
1) 極喜地〔ごっきぢ〕…真如と一体の体験を初めてした時の無上の喜びの境位。
2) 離垢地〔りくぢ〕…汚れが離れる段階。
3) 発光地〔ほっこうぢ〕…智慧の光が輝き始める段階。
4) 焔慧地〔えんねぢ〕…智慧が焔となる段階。聖なるものに対してさえも、愛著を否定する。
5) 極難勝地〔ごくなんしょうぢ〕…<真如>を証する根本智と、世俗の智とが、真に綜合統一される段階。
6) 現前地〔げんぜんぢ〕…無分別の最勝の智慧が現前する。
7) 遠行地〔おんぎょうぢ〕…<現前地>で現前した最勝の無分別智が、更に極め尽くされる段階。
8) 不動地〔ふどうぢ〕…真如と一体となった生活が、何の努力もせず自然に続き、二度と変わることはない境地。
9) 善慧地〔ぜんねぢ〕…仏の教えの言葉や意義を自在に理解体得し、自由自在にそれを人に説くことが出来る段階。
10) 法雲地〔ほううんぢ〕…衆生の煩悩を滅除し、衆生の善根を生育させる。智慧の完成。

五位の修行 第三位 通達位〔つうだつい〕

i. <通達位>とは、唯識の真理が本当に証り、対象化が崩壊し、自分自身が<空>の真実になる段階である。→自分にかえること。
ii. 自分が自分を超え、自分でなくなる。自分でなくなりながら、しかも自分となる。
iii. <三界唯心><万法唯識>は、特に認識面にポットを当てた空の境説である。
iv. 自分に対して一番愚なのは、自分が見えず、自分を誇大視してそれを実体化して固執してしまう<末那識>である。
v. <真如>…そのまま、ありのまま、という意味を持つ→本当の自分
vi. 対象化しないで親証する働きを<根本無分別智>という。
vii. <無分別智>とは、真理を親証(自分の空なる真相が証る)することであり、見えなかった真実が見えてくる智慧の働きである。
viii. <無分別智>は五相を離れている。
1) 無作意を離れている。
(a) 修行によって獲得される物であるということ。
2) 尋有伺以上の境地を離れている
(a) 無尋唯伺地以上
3) 想受の滅した寂静を離れている。
4) 物質的性質を離れている。
5) 真実を計度する種々の相を離れている。
ix. 八識の中で<通達位>で変わるのは、<第六意識>と<第七末那識>である。
1) <第六意識>が<妙観察智〔みょうがんざつち〕>に、<第七末那識>が<平等性智〔びょうどうしょうち〕>になる。
2) <第六意識>が透徹してくると、<第七末那識>が真理を観、万物を平等に観る智慧が開けてくる。
x. <通達位>は、<見道><極喜地><初歓喜地>ともいう。
xi. <通達位>は、<資糧位><加行位>とは根本的に次元が違う。
1) <資糧位><加行位>は、自我中心的、対象的認識。
2) <通達位>は、<空なる自己>世間→出世間、有漏→無漏、凡夫→聖者への段階。
xii. <通達位>には、<根本智〔こんぽんち〕>と<後得智〔ごとくち〕>がある。
1) <根本智>は、真如と一体になる智慧である。
2) <後得智>は、現実を認識し自覚することである。
3) どちらも<無分別智>の二面である。

五位の修行 第二位 加行位〔かぎょうい〕

i. 修行とは、真実に向かって生きる、真実そのままに生きること。
ii. 「依法不依人(法によって人に依らざれ)」…個人の主義主観に依存することなく、普遍的な真理に依って生きよという仏陀の言葉。
iii. 言葉は一つの社会の約束事に過ぎない。
iv. 真の理解とは、頭でなく<こころ>の底からの実感、覚醒による。
v. 「人生は苦だ。苦の源は己の中にある。」仏陀の言葉。
vi. <加行位>とは、真の覚醒が始まり、その体得が深まっていく段階である。

五位の修行 第一位 資糧位〔しりょうい〕

i. 自分の向上を資〔たす〕けるあらゆる修行を積み重ねる段階。
ii. 修行は、大分類三、小分類三十の項目があり、それを<三階三十心>という。
iii. 大分類の<三階>とは、<十住><十行><十廻向〔じゅうえこう〕>である。
iv. 小分類の<三十心>とは、<三階>がそれぞれ十にわかれていることをいう。
v. 十住とは、<こころ>が仏道修行にきまって動かぬ十心である。(主に精神的な部分)
1) 発心住〔ほっしんじゅう〕…仏道への純粋な気持ちをおこす。(信心、精進心、念心、恵心、定心、施心、戒心、護心、願心、廻向心。)
(a) 知的探求を本筋とする唯識でも、根底には仏(本当の自分)への<信>がある。
(b) 仏を知り尽くしていたら、仏を求めることはない。また、全く知らなくても、求めることはない。
(c) <信>の心所での「心澄浄」というところで、「忍」は知的な認識、「楽」は情的な思慕、「欲」は意志であった。
2) 治地住〔ぢぢじゅう〕…身・語・意の行いを清浄にする。
3) 修行住〔しゅぎょうじゅう〕…唯識観を深め、六波羅蜜の修行を進める。
4) 生貴住〔しょうきじゅう〕…自分の全てが真理の中にあることを自覚する。
5) 方便住〔ほうべんじゅう〕…自分の善行を自分のためにせず人々のために生かそうとする。
6) 正心住〔しょうしんじゅう〕…毀誉褒貶〔きよほうへん〕に動かされない。
7) 不退住〔ふたいじゅう〕…後退しない。
8) 童真住〔どうしんじゅう〕…子どものような純粋な気持ちを持つ。
9) 法王子住〔ほうおうじじゅう〕…優れた智慧によって、将来法王になるような高邁な精神を持つ。
10) 灌頂住〔かんぢょうじゅう〕…王位につき得るくらいの勝徳を備える。
vi. <十行>とは、十の<行(行動、行為、実践)>のことである。(主に実践の部分)
vii. <十廻向>とは、十の<廻向(めぐらす)>のことである。自分に向ければ大いに得になり利益になるようなことを、他に廻すということ。
viii. 唯識の修行の一番根本は、「人間の認識のしくみ」、「存在の空無性」、「深層に潜在する利己性」などへの省察と自覚を深めていくことである。=<唯識観>=<解〔げ〕>
ix. <資糧位>は、<智慧行>と<福徳行>に分類される。
1) 「智目行足」とは、行動の方向は<智慧>によって導かれ、<智慧>は<行>によってのみ現実化し具体化するものであるということ。
2) <福徳行>とは、人をいたわり、許し、助ける修行のことである。
(a) <布施>…与えること。
(b) <精進>…<こころ>を込めて前進すること。
(c) <禅定>…ゆったりとした<こころ>の定まりのこと。
3) <智慧行>は、福徳行をするために見定める修行である。
x. <資糧位>を支える力のことを、<四勝力〔ししょうりき〕>という。
1) <因力〔いんりき〕>…自分の力のこと。
2) <善友力〔ぜんうりき〕>…真理への志が同じで、ただそれだけで結ばれている善友の力のこと。
3) <作意力〔さいりき〕>…自分の力を出し切ろうと思い立つこと。
4) <資糧力>…身体・言葉・こころの三業すべての善き行為のこと。
xi. <四勝力>によって存在や認識の省察を深め、2つの濁乱<煩悩障><所知障>が消えていく。
1) <煩悩障>…情的な迷乱
2) <所知障>…知的な迷乱

五位の修行

a. 人間が自己完成し、深みを増していくための課程を、五段階に分けて考えられているのが五位の修行である。
b. 五位とは、<資糧位><加行位><通達位><修習位><究竟位>である。

偏依円の三性

i. <三性>は、<依多起性><遍計所執性><円成実性>のことをいう。
ii. <偏依円の三性>は、<三性>の頭文字をとって名づけられており、唯識教義の重要なひとつである。
iii. <依多起性〔えたきしょう〕>とは
1) 「他に依って起こる性」という意味である。
2) 存在の面から捉えると、私たちは様々な諸条件によって形成されており、空しく、はかないものであるということ。
「諸法無我」…私たちが健康であるのも、私が私であるのも、様々な条件の相互のかかわりのうえにあるに過ぎない。
3) 認識の面から捉えると、私たちは自分の言葉や観念イメージ等を投影して対象を見るということ。条件の変化によって変わる。(例:幼児が書いた父母の似顔絵は、鼻の穴が強調されている。これは、いつも親を下から見上げているからである。)
4) <名言>の持つ役割
(a) 頭の中にある観念が認識成立の重要な要因になっている。その観念を<名言〔みょうごん〕>という。
(b) <名言>も、主観の投影と同じである。
(c) 言葉(名言)には、認識が制約され固定化され、思考、思索も拘束するといマイナス面もある。
(d) <名言>が先行すると、言葉が独立性を帯びて、柔軟で自由な認識が抑えられてしまう。
(e) 世界中の戦争で必ず、「正義の戦い」と主張し、その名の下に勝敗を裁いてきた。これこそ<名言>の恐ろしさである。
iv. <遍計所執性〔へんげしょしゅうしょう〕>とは
1) 「遍〔あまね〕き計〔はから〕いに執着される性〔もの〕」という意味である。
2) 感覚の対象も、思考の対象も、無条件に信じていること。
3) いろいろな条件の組み合わせである存在や認識の実態を、固定化し実体化する働きのこと。
4) 対象を<法>で表わし、<法>を無条件に是認することを<法執〔ほっしゅう〕>という。(相分を実在と信じてしまうこと)
5) 自分で作り上げたもの(相分)に拘束されてしまうことを、<相縛>という。
6) 自分を中心とした計らいが、私たちの思考や認識に浸透している<末那識>が働くから、<遍計所執性>が出現する。
7) <遍計所執性>は、自己自身の実態の省察を困難にする。
8) <遍計所執性>は、私たちが勝手に描いた虚像の世界であり、それを<体性都無〔たいしょうとむ〕とか<情有理無〔じょううりむ〕とかいう。
v. <円成実性〔えんじょうじっしょう〕とは
1) 「円」は周遍の義といわれ、普遍性を表わし、「成」は成就の義で、常住を表わし、「実」はその真実性を表わす。
2) 普遍的で永遠に真実なものという意味。<真如><無為法>
3) <遍計所執性>が迷いの人間の実態ならば、<円成実性>は悟りの自己である。
vi. <三性>相互の関係
1) <依多起性>の示す心理は、どこにも固定的絶対的な物はないというものだ。しかし人間は、その存在や認識の空無性に耐えられないので、意識の中に作り上げられた物に依存しようとするのである。
2) <遍計所執性>は、真実の信念が持つ強烈な頑固さと柔軟な精神さえも、停滞化し、凝固化し、固定化してしまう。
3) <依多起性>と<遍計所執性>は、共に空無である。<円成実性>は、その存在と認識の空無性の真理である。
4) <三性>の相互の関係は、一体(不離・非異)でもなく別体(不即・非一)でもない。(=不即不離・非異非一)
5) 物事の断定は、その断定する人間の判断力に依存しており、その人の主観である。
6) 「智慧」の「智」は決断、「慧」は簡択(えらびわける)ことである。
7) 仏教によっては、自己が本来的に仏であることを強調するあまり、自分の相対有限性を忘失してしまうものがあるが、人間はあくまで人間であり超人ではない。
8) 「<遍計所執性>=<依多起性>」の自分と「<円成実性>=<依多起性>」の自分は全く異質の自分である。
9) 「眼横鼻直〔がんのうびちょく〕」=道元禅師が中国での四年間の修行で得たこと…眼は横に、鼻は縦にというありのままの自分が、ありのままに分かったことを表した言葉。
10) 自分の都合の良いように合わせて見たものが<遍計所執性>の自己であり、その真相に気がつくのが<円成実性>の自己である。
11) 「<遍計所執性>=<依多起性>」から「<円成実性>=<依多起性>」の自己になったとき、眼横鼻直の真理の分かる真実の自己になる。
12) 今ここに生きている現実にこそ、人生の奥義がある。
13) 虚妄なる分別(遍計所執性)の中に空性(円成実性)があり、空性の中に虚妄なる分別がある。『中辺分別論』より
14) 眼横鼻直のありのままの自己の中に、「仏法」=真理がある。
15) <円成実性>=永遠の真理を証見する(信じる、理解する、自覚する)ことで初めて<依多起性>が見えてくる。
16) 自分を反省し、自分への自覚を深めるという道でしか、自分を超える方法はない。
17) 仏を呼ぶ凡夫は、すでに仏に出会っている。=行仏性