時事ドットコム:性的被害賠償、1500億円超に=カトリック聖職者の虐待問題

宗教って言うのは何なんだろう。社会はそれを真剣に考えることが無くなったと言える。
その本質に目を向けていくと、宗教など本当はあり得ないものであるかも知れない。
そんなことを感じさせる記事でもある。

【ジュネーブ時事】バチカンからの報道によると、カトリック教会の神父らによる相次ぐ性的虐待問題で、教会側が被害者らに支払った賠償額はこれまでに総額約20億ドル(約1540億円)に上るとみられることが8日、専門家の調査で明らかになった。公にならず和解に至ったケースも多く、正確な額は不明という。
調査したのは米カトリック教会の関係者2人。各国のカトリック聖職者らが参加し、バチカンで6日から9日まで開かれている会合で報告、聖職者らへの信頼が失われた代償は金銭的損失よりも大きいと強調した。(2012/02/09-06:45)
引用元: 時事ドットコム:性的被害賠償、1500億円超に=カトリック聖職者の虐待問題.

“時事ドットコム:性的被害賠償、1500億円超に=カトリック聖職者の虐待問題” への6件の返信

  1.  そうですね。宗教とは本来なんだろうと言うことを、原点に戻ってよく考えてみると色々と見えてきます。
     英語ではReligion はラテン語のreligioから派生したものです。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味です。
     この辺から宗教の本質の変化が見えてきます。宗も再び結びつけるという意味です。同じです。 またゆっくりとこの辺のことはテーマとしてご紹介しますね。
     「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれているほど、宗教というもののとらえ方があります。
     ですから、まず、その普遍性を明確にするところから、宗教って何だろうっていうことになりますね。
     仏陀の言葉は宗教では無い。それとも宗教?こんなことを考えていくと、より自らの内面も深く見えてくるから、このような問題を考えていくと、今回の事件の必然性も明らかになってきます。 宗教「再び結びつける」この意思が何かを生むのだろうと仮説を立ててみると弁証の円転が始まります。
     戦争と宗教。これも実は同じ理由なんですね。
     パッションという映画。英語のpassion、情熱と迫害。二つの意味があります。
     この相対性を生み出したのがこの「再び結びつける」という相対の「離れている」という有為にあるというのも、老子もキリストも仏陀も指摘しています。
     離れているから再び結びつけることができるのです。
     それで離れている。例えば、善悪の分離。エデンの園。創世記ですね。
     宗教。宗教というものには、必然的な事象がある。
     これもまた現実であり真実なのです。
     これを見つめていくことが、そろそろ人間社会には真剣に必要な時代に入ってきたのではないでしょうか?

  2. 難しい…特にパッション以降が(笑)

    でも「再び結びつける」は然り。ぱんだは宗教(だろうとなかろうと)、人が本来の立ち位置から離れてしまって戻ろうとしている と思います。なのでもともとは結ばれるべきものが分離してしまってるので Religion の話はスムーズでした。

    また、若林先生がいっていた太極拳の套路は本来の姿に戻る…的な話も非常に理解しやすかったです。

    今回の問題も、宗教の問題ではなく、個人or宗教団体の問題で、虐待した人たちだって胸に手を当てて考えてみれば心の宗教は答えを知っているはずだぱん。

    そして、話からそれてるのか謎なんですが、宗教団体が宗教していなかったり、いろいろな問題があったりで、必然性のある宗教が、最近では名前を変えていたるところに出てきているのかなー、なんて。

    でも、いまのままじゃ同じ道をたどっちゃうのかなぁ

  3. まずそうですね。宗教という定義。これが一致していないと話がややこしくなります。
    定義は宗教学者よりも多くあるので。定義は人それぞれ自由でよいと思います。
    私は、宗教を英語の原語のとおり定義してみました。「再び結びつける」ですね。
    カトリックでは一貫していて神と人間を再び結びつけるとしています。
    宗という字も再び結びつくという意味です。英語では教えという意味も含んでしまっているようですが、実はもっと思想的な部分で、パンダさんが言っているような心の持ち方のようでもあります。しかしながら、現在はそうとは限らず、宗教というのは一つの組織として認知されています。
    日本もそうですね。宗自体には再び結びつく。仏なら仏と。神なら神と。道なら道と。等々それを教えるのが宗教となっているようです。
    そこで、再び結びつくということを考えてみます。再び結びつくとは現在結びついていないと言うことになります。
    これがこの定義の場合の前提です。Religionも宗もそういう意味ですので、とりあえずこの定義で話を進めます。
    今は離れていると言うことです。どのように離れているかというとキリスト教では例えば善悪。道教では陰陽。神道では神と人間。仏教では仏と己。
    まずこのスタンスが無いと、再び結びつける必要がありません。
    しかし、仏陀も、キリストも、老子も、神道やインディアンのアニミズムも、人は仏であり、神であり、道であり、自然であると説いています。
    私も人間は仏とも神とも自然とも分離などはしていないと考えています。
    ただ、そうであることを忘れてしまっているだけと考えています。
    英語ではその英語はREMEMBER。一員に戻るという意味です。思い出せばすぐに一員に戻ることができます。結びついていることを忘れてしまった。そう考えています。
    ですから、太極拳ではそれを思い出せばすみます。
    で、パッション以降の話です。
     戦争と宗教。誰かが悪で誰かがだだしいと思うから争う。誰かが神と結びついていて誰かが結びついていないから、その神や結びつき方が違うといって争う。相対性という原理です。太極思想では両儀。太極はそれがつながっていて(太極図)、混沌としている(小さな◯)こと。太極思想はここにこの相対性の解決を求めています。もとは一つという考えです。それが無極です。何も、太極思想だけで無く、仏陀も真理は一つ、キリストも三位一体としているのですから、このような一つという絶対的なものが真理であることは誰でもわかります。
     敬虔なカトリック信者のメルギブソンがパッションという映画でそのテーマに取り組みました。英語のpassionは通常の辞書では情熱と出ていますが、少し詳しい古い辞書ではキリストへの迫害という意味が出ています。このように二つの意味があります。
     同じ気持ちが高ぶるも、片や情熱。片や迫害。なのです。ここには相対性があります。陰と陽。善と悪となります。これが、再び結びつけるという定義が成り立つ。離れた状態です。
     しかし、気持ちが高ぶる自体に善悪が無ければ、ただそれだけの意味です。
     手術用のメス。手術用と書いたから手術用で、人の命を助けるものというイメージがありますが、強盗が持つと凶器になり、人を殺します。その善悪は、宗教によってキリストとイスラムのようにその管理者の価値観だけで左右されるのです。これが分離しているからできることなのです。すなわち、分離させておくことで、自らの価値観の善を示し、他者が善と思っていることを悪とすることもできる。アメリカとイスラム、資本主義と共産主義。世の中は分離に満ちています。
    宗教の意味がそうであると言う定義なら、またそうであるなら、この相対性から生まれる必然的な分裂は止まることはありません。そこで本来の宗教とは何なんだということを考えることが大事になってくるのです。
     この定義では、離れているから再び結びつけることができるのです。
     例えば、善悪の分離。エデンの園。創世記ですね。そこでは、人間は善悪の実を食べたから堕落したとはっきり書いています。そうなのです。善と悪を知ってしまった。自分の中でそれを分けてしまった。本来人間はその実を食べずにエデンの園にいたのです。
     だから、神という善。人という悪。これが分かれているという宗教。そう考えると、宗教によっての神や価値観が違うと、宗教というものには、争うという、分裂するという必然的な事象があるのです。
     人が人で生きていく限りは悪であるかも知れません。しかし同時に神なのです。これは切り離すことのできないものなのです。太極図。剣禅一如。本来無一物。エデンの園。道の一。全てそれらの真理を表しています。
     分離している。ここから始めるから、再び結びつけることになります。
     人間のこの自我と、純粋意識はいくら切り離そうと思っても生きている限りは切り離すことができません。これが離れているのでは無く、いつも一緒にあるということを思い出せば、もう宗教すらあり得なくなります。菩提に行けば、般若心経を捨てろ。空海が述べた言葉です。道は名前など無い。老子が述べた言葉です。
     純粋意識を主とするか?自我を主とするか?しかし、生まれる前からの主は純粋意識であろう。
     それが先天の気であり、神であり、それを主として生きる心が仏である。
     私はこう考えています。善悪などない。しかし、普遍的な真理はある。宗教は根本的な絶対的境地をもう一度探るべきであろう。ヨハネパウロ2世はその道を求めた。何度もテロに遭いながら生涯を閉じたが、彼の取り組みはとても心に残る。
     まず、宗教とは本来何なのか?宗教の自由を憲法に持つ、私たちこそ、本当に心の底から色々な定義の中にある普遍性を求めていくことができるのでは無かろうか?
     このような議論が世界に巻き起こり、どのような宗教もその普遍性でつながり、世界に宗教紛争や、戦争が巻き起こることが無いように望む。
     今回の事件は、宗教の問題と言うよりも、その人の心の内にある分離の問題である。善と悪が分離している。しかし、宗教が分離を前提に成り立っている以上。この行為は悪魔の仕業で終わってしまうと悲しい。アメリカの資本主義は悪魔の仕業、であるから、聖戦として911で多くの人を殺すのは正義。キリスト教の起こす戦争も、何もかもそのような原理が成り立つ。悲しいことだ。
     人の心の中には善悪が混在している。であるから、善悪など切り離すことができない。
     善も悪も自分であり。その主を何にするかが選択である。
     悪が自分で無いとするなら、サタンだというなら、その自分を忌み嫌うしか無くなる。
     自分の中にいるサタンはいつも自分から離れることが無いのに。
     今回はこのような分離が、自分の中でサタンが支配できる環境を作ってい待ったと考える。
     サタンと、神が一体で有るというなら、いつも対話できる。またわかり合える。天使のガブリエルである。神の人である。一体であれば、サタンも神と共に生きる。であるから、双方が分離してどちらも重くなり動かなくなると言うことは無い。いつも一緒に動いているから、双重になることが無い。太極思想と全く同じである。サタンだけに支配されることも無く。神だけに支配されることも無い。神が主でサタンと共に生きる。これが人間である。太極図であり、太極拳も陰陽が共に動く。
    宗教とはなんであろう。古代のアニミズム。日本の神道は。タオ。その本質をもう一度見つめさせてくれるものだと思う。この時代には宗教など無かった。自分の中や、森羅万象の神と話ができる人がいた。その人の話を聞いた。そして自分の中にいる神を見つけた。ただそれだけである。
     キリストも、仏陀も、老子もただそれだけである。
     私は無宗教。しかし絶対的な普遍性を求める。そしてそれを主として相対性の世界に生きる。
     太極拳はそれを無極という絶対性で、太極という相対性を自由に操る世界である。

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